こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

日記(0425-0502)

◆04/25

 お世話になった方の誕生日なので、贈り物をする。高いものをあげても気を遣わせてしまうし、かといってあからさまにチープなものもそれはそれでアレなので、ネタに走った贈り物をする。ワーク的には大詰めだが、しっかり定時に帰宅。残業は嫌いです。

◆04/26

 夜は飲み会。面白おかしく過ごす。帰ってから体調が非常に悪い

◆04/27

 体調調整の一日。雑務をこなす

◆04/28

 彼女が帰省したので、暇。家の様々なことをする

◆04/29

 東寺展。実は2回目。1回目は時間がなくて立体曼荼羅をさっさと見ておしまいだったが、今回は音声ガイドを携えて、がっつり鑑賞する。空海の熱量すげえな、と思った。会社に入って思うのは、熱量ある人間というのが必ずいて、そのような人の言によれば、どうやら誰かから受け取った熱量であるそう。空海の熱量を受け取った人間がいて、それが連綿と受け継げられて今日に至るのでしょう。僕は誰から、どんな熱量を受け取ることができるのでしょうか。その後、浅草にて寄席。面白かった。これもまた達人技、熱量が受け継げられている。この日も贈り物した。

◆04/30

 平成最後の日だが、特に何もない。ちょっとしたミッションをこなしたのち、焼肉を食べに行った。これもまた平成最後の焼肉か。

◆05/01

 令和最初の日。とはいえ、大したことはない。映画を一本見た。大変面白く、出来の良い映画でした。

◆05/02

 府中市まで出かけて、漱石の絵を見にゆく。中学の頃、漱石の文章を読んで感銘を受けた…訳ではないが、なんとなく引っかかり続けていた。横須賀に出て、たまに読んで見ると最高におしゃれな文章で惚れ込んだ。それ以降、漱石を敬愛しているので、漱石の絵が出るとなれば見にゆかねばなるまい。それが道理というものであろう。ということで何も考えず出かけるとなかなかの混雑。見終わり、帰路につくと入場帰省。こりゃまたすごい。こいつら暇だな、と思いながら帰り、ココイチのカレーを食べる。

他人の「苦手」を擁護するのは本当に正義なのか

*前提として、障がいのある人や病にかかってしまった人などはこの話題には含まれていません

 

◆僕が幼少期を過ごした地域の特性もあると思うが、会話の切り返しが素早くができない人/討議中に意見をまとめることが苦手な人が、意見を言えるまで待つことが「他人の話を最後まで聞く」と言うことに内包されていて、すごく違和感があった。

◆僕が思うに、会話の切り返し(その巧妙さみたいな部分は、天性のセンスが問われる部分が少なくないでのおいておく)や、討議中の自分の意見をまとめ発信すること などは、その人のインプット量に関係があると思う。

◆意見をまとめることは、自分の地肉となっている引き出しの多さや、インプットの際にどれだけ深掘りしたか、といった点にかかっていると思うし(逆にいえばこれらを習慣づけていれば難しい話ではない)。素早い切り返しも、友人や親との会話でできているならそれをTPOに合わせてアレンジすればいいだけだし、思い浮かばないのは、これまでの経験不足だ。

◆前述した2つの性質(会話の切り返し/自分の意見をまとめる)が「できない」「苦手」と言うことが、果たして「多様性」として尊重されてもいいのか?

◆これは個人的な不満だが、意見があるので意見を言うまたはその理解を促進するために補足説明をする、結果的に時間がかかってしまう、ということについては「反省しろ」、伝え方の賛否はあろうが、自分の意見と相手の意見が違う場合に、分量で勝るので議論に勝ったように見えてしまう状態では「相手の話を聞け」と指導される。アウトプットの量が多い/すぐに自分の意見をまとめて発信することは「多様性」として尊重されないのか?

◆確かに、そのような状況で場の空気や状態がTPOにあっていないのであれば修正すべきだ。が、「できない」「苦手」が多様性として擁護される(「そういうのが苦手だから待ってあげて」というような)一方で、その逆が多様性として擁護されないのは、許されるのだろうか?

◆許せないのが「苦手」「できない」を多様性として擁護されておきながら、他人を批判する連中だ。あれはなんなんだ?それらが「できる」人間のアウトプットを成果物して出して、評価だけ享受しておいて、結果的に自分は何も成果を出していないではないか。よくそんなことでのうのうと生きていられるな。

◆僕は、「討議中に意見を言えない」人は討議に参加する意味もないと感じる。もっと言えば、そのような連中は怠惰である。いくら人当たりがよかろうが、意見を言えない時点で潤滑剤としての役割すら果たしていない。「意見を言えない」連中はすぐに自分のことを「潤滑油」などというらしいが、潤滑油は噛み合わせパーツの間でしっかりと自己を主張しているから役割を果たしているのだ。そこにただ存在してニコニコ笑っているわけではない。硬くて強い連中に挟まれながら強固に自我を保っているのが潤滑油なのだ。

◆ということで、「討議中に意見を言うのが苦手だな〜」「うまく会話で切り返しできないな〜」という連中は本を読むなりドラマを見るなり遊びに行くなりをして、インプットを増やし自分の引き出しを充実させるべきだ。それをせずに「苦手だ〜」とのたまうのは怠惰に過ぎない。しっかり努力しているならば、ガーッと喋ってしまう僕らだって、ちょっとはあなたのことを尊重するだろう。努力していないのに認められようとするな。怠惰なままでは、誰もあなたのことを尊敬しない。(自省を込めて)

ここ1ヶ月で驚いていることについて。

◆僕の人生史上ないくらいに、レベルの高い集団で過ごしています。なので、まじで公私共にストレスフリーな生活を送っています。

◆そんな生活なのですが、あることに気が付いて、少し驚いています。

◆それは、「誰かに何かをしてもらうこと」が「誰かの負担」に切り替わっていることを周囲が認識している ことです。

◆かつて、僕が集団を管理する立場にあった頃、誰かに任せてそれを管理するよりも、自分がやってしまった方が「楽」という理由で、様々な調整などを一手に担っていたことがありました。結果として倒れる結論になってしまったわけですが、その頃の集団や、大学で属していた集団は、集団で負うべき責任を 誰かが取ることについて、「自らにとって肯定」と捉えている人が多数でした。

◆結果的に、僕のように「自分がやってしまった方が楽」と考える人に責任と作業が集中するわけです。僕としては、それをすることで自分のナレッジが蓄積されて、結果的に組織の中で自分の優位が形成される、そして誰かに任せるより基本的にクオリティの高い結果が出ることが多かったので、評価も高まる、という二点から全くそれらを「負担」だとは思わなかったのです。

◆確かに、現実には、それによって「別に費やすことができた」可能性のある時間は消滅しているわけで負担といえば負担なのです。

◆で、現在属している集団においては、かなり成熟度が高いので、「分担をしてもクオリティが下がらない仕組みづくり」について考える人が多く、(恐らくアカデミック出身者が多いこと、学生時代に100人規模のサークルの取りまとめをしていた、四桁人規模のイベントを主催していたという経験が大変寄与しているものと思われます)必然的に、それぞれのケースにおいて「誰かの負担」という認識が強い(誰がやってもクオリティに変化が出ない=成果がコモディティ化している、つまり誰がやっても良い作業を誰かがやらなければならないという思考に至る)。

◆この環境は非常に居心地がよく、ルーティーン業務以上にいかに価値を発揮するか、いかにオリジナリティを、いかに独自色を出すか、という本来の期待に報いる努力がそれぞれできているわけです。こんなにもやりやすい状態はない。

◆この居心地を知ってしまうと、もうかつての環境には戻れません。この仕組みの組織を、学生時代に構築できていれば、どれだけ全体にとって幸せだったか…。

◆と、考えていて、ふと「どうすれば構築できただろう?」と考えることがありました。

◆結論から言うと、「あの組織では不可能」。何故ならば、今回の前提条件として「組織の責任を」「誰かが行うこと」が「誰かにとって負担である」と言う認識がなく、「組織の責任を」「誰かが行うこと」が「自分にとっては好都合」と言う認識だったからです。

◆ちなみに、これを当事者に聞けば、「そうは思っていない」と答えるでしょう。しかし、振り返ってみて、自ら責任や義務を全うしようと動いたことがあったのでしょうか。僕が管轄していた組織集団を見るに、学生時代の知り合いにそう言える人物は数人しかいません。

◆その点に気づいてしまうと、「なんて成熟度の低い集団だったんだ」と気づいて驚いてしまうのです。でも、これが僕にとって無駄だったかというとそうでもなくて、あのような集団の特徴は掴めたので、金輪際あのような集団と一緒に仕事をすることを回避できると思うと、プラマイゼロだったように思います。もっといえば、あの集団にいたおかげで、上の層からは比較され高評価を得ることができたわけなので、プラマイゼロどころかプラスだったな、と思ったりもしています。

◆ストレスフリーでいろんなことに余裕があると勉強もはかどりますし、色々と楽しいので、まじでストレスフリー最高だな、と思っています。

日記(0408-0410)

◆04/08

 土日は色々と考えないといけないことが多かったぶん、たくさんアウトプットできてよかったな〜。という感じ。色々な思考の整理もできたのでよかった

◆04/09

 電車が面白い。何が面白いかと言われると難しいところなんだけど、とにかく面白い。どこでもふらっと降りたくなる。家康は偉大なディベロッパーとか、そんなこと。

◆04/10

 PCを落としかけて焦る。リズムが完璧に整っているので、朝から頭が冴えているのだけど、なんかやる気の起伏が感じられる。思えばそんなにやる気の起伏が昔からなくて、なんか違和感。ってか、普通はやる気の起伏があって、これまでは常に躁状態だったんじゃないか?ちょっと怖い。多分人生の中で、こんなに暇(というか考えることがない時間)なのは初めてなので、ちょっと狂ってきた?

◆04/11

 とても勉強になった。「こんなもんでいいのか」ということと「やっぱこれくらいはやらないといけないのか〜」という相反する印象。

日記(0401-0407)

◆04/01

 式典。みんなで年号発表をみる。節目やらターニングポイントやら色々言われているけれど、まあ「誰にとっても」という面を強く感じてしまうので、自分が変わるとは到底思えないのでした…。

◆04/02

 なかなか疲れる。このような産業が儲かるのはわかったのだけど、この時期以外ではどのように収益を得ているのだろう。年中需要があるのかな?

◆04/03

 結構面白い。組織論的なアプローチで、非常にサイエンティフィックだったので、理解がスムーズに進んだ。特筆するほど斬新なこともなかったけれど、そういう面で落とし込むのかー、という発見。

◆04/04

 これはいまいち…。という感想。一つ思ったのは、これを やる/やらない で結果に変わりは出るのかな?という疑問。「やった感」は間違いなく出るカリキュラムなんだけど、それがアリバイ作りになりそうなメニューだったな、と思った。

◆04/05

 この日は一番面白かった。この手のやつは大団円を迎えるよう、予定調和的になっているものが多く、教材もおそらくそのような設定。しかしながら、講師の技量で大団円ではなかった。一人一人で捉え方が絶対に異なる(全体的に大団円ではない)という、本来、教育があるべき姿であった。現実問題、カリキュラムを終えれば「よくできました」と全員がなるのはあり得ない。個々でそれぞれ「自分はOK」「自分は改善点がある」と自分の技量を自己判定することこそが最低限の到達点であると思うと、やはりこれは正解だろう、と思った。帰りはもちろんグリーン車

◆04/06

 クリーニング屋に行く。800円行かないくらいだったんだけど、え!?めちゃ安くね?やっぱPXのクリーニングぼったくってるな〜。道中、足をくじく。久々に怪我した。捻挫ってなんか懐かしい。

◆04/07

 捻挫したので、神保町に行くことを諦めて療養。暇なのって良いな。

日記(0318-0326)

◆03/18

 入社書類で要求される大体のものがないことに気づく。年金手帳など。健康診断の予約をしなければならないことにも気づく。急いで書類仕事や手紙を書いたりする。

◆03/19

 シャボン玉を作った1日。午前は年金事務所に行く。対応がスムーズで待ち時間もなかった。悪評を聞いていたので拍子抜け。

◆03/20

 健康診断、住民票など。夜は飲み会。名古屋での飲み会もあと数回だと思うと…寂しい?というか違和感?

◆03/21

 就職祝いにおいしい寿司をいただき、ジャンパーとズボンをいただく。感謝。うまかった。夜は久々の酒場。

◆03/22

 この日は忙しい。年金事務所で受け取りなど、書類を一通り整える。のち、お隣で退職の手続きなど。親しい人とお話などする。夜は飲み会。大変面白く美味しかった。

◆03/23

 卒業式。前日の疲れが取れない。写真をたくさんとったので、iCrowdからデータを使いすぎだと苦情と課金の要請。夜は旧友といつもの店→いつもバー。

◆03/24

 実家へ。挨拶回りなどして、栄で用事を済ませ、岐阜へ。初めてきたけど、岐阜駅と新鵜沼って遠いんだな。近いと思ってた。面白おかしく過ごす。

◆03/25

 岡崎へ。いつものかりんとうを仕込み、お礼まわりする。その後、移動する。サンキュー名古屋!

◆03/26

 役所で手続きしたり、掃除したり、料理したり、荷物を整理したり。友人と週末の予定を調整。

追いコンの出来/不出来

◆こんなことを書くと、また「人間性を疑う」「人としてどうかと思う」などと色紙に書かれる懲罰を受けるが、もうそんなことは気にせず書いてやろうと思う。

◆はっきり言えば、追いコン/卒コンの出来は卒業生の通信簿である。その組織をどれだけ作り込めたか、その点数がはっきりと出る場面であることは間違いない。もし開かれなければそれは不出来どころか存在が黒歴史ということである。この辺は疑いようがないだろう。これがわからないようではこれより先のことは何も理解できないと思われるので読まないほうがいい。しかしながら、大学の同期はこれらを理解できない人が多数であると思われるので、かなしい。

◆まず、会場だ。だいたいは組織によって、縄張りとするエリアがあり、それに基づき行う。普段は大学のそばなどで集まっているのに、改めて特急で行くようなところでやる必要はない。もしそのような辺鄙な地で行うのであれば、苦情や意見具申を行うべきであり、そのようなことが行われない組織に属する必要は全くないし、おそらく追いコンのレベルもここで記述するレベルではないだろう。

◆また、追いコンは基本的には会話の場であり、食事の場ではないので、立食が可能であることが好ましい。人数分の席の要/不要は、そこでビデオなどを流すかどうかに左右されるので、都合によって分ける。キャパシティと参加人数はうまいことコントロールしなければ熱量が不足する恐れがあるので、十分な配慮が必要。自らパーティーに多く出席し体感を得るか、先輩やお店の人に相談することも重要である。この辺がみんなできない。そもそもお店を知らない。そんな人生…と思うが、それはそれで幸せらしい。

◆次に、進行だ。式次第を作成するにあたり、パートを任せる方には全体像を丁寧に説明すべきだ。「あれ?もう挨拶?」などと言われた時には、もう救いようがない。プレゼントもそれぞれ品物を聞いておいて、優劣が出ないように順序を配慮すべきである。

◆また、重要であるが忘れがちなのが、2次会のお店をある程度(全体の7〜8割くらい)抑えることのできるキャパシティのお店を確保する必要があることだ。これはカラオケ店なので構わないので(むしろマイクがある分進行がしやすい)、準備をするべきである。わかっていると思って書いているが、開始時刻は17~18時ごろが好ましい。当然、2次会までは大多数が進むことを前提とし、3次会あたりで好きなBarや飲み屋などに少数で進み終電で解散することが好ましい。これは常識なので記す必要もないが、実はこのことを理解していない人も多い。なぜなら、「個人によって飲食店の趣味趣向も異なる」という当たり前のことを理解していない人もたくさんいるからだ。彼らは極刑に処すべきだと思う。

◆2次会の集計を取ることが無粋であると考える集団もあるので、そこは空気を読む必要があるが、そのような空気すら読めないようであれば(意図の有無は別にして)、幹事の素養として足りないので、幹事を辞退すべきだった。

◆ここまで、会場と進行について述べたが、これが大部分である。ここさえ良ければ、問題はないので、以下は省いても良い。

ドレスコードは、卒業式ほどではないがエレガンスさを出すとよい。お店にもよるが、まともな立食パーティーができる会場であれば、それなりの格好でなければ合わない。大学の部活で経験した卒コンで、結婚式2次会などで使われる式場でVネックシャツにパーカーなみの格好で現れるのが多数、といった行った会があった。その会では一気飲みなどが行われ、極めて下品な会であり、これ以上下品な会を僕は見たことがなほどであった。男性であればジャケット着用程度のドレスコードを定めておくと、OBもきやすい。間違えても、公のお店で部活のジャージ着用などはしてはいけない。

◆そして、何と言っても参加者の意識である。お酒を飲めば、どんなコミュ障でもバカでもそれなりに会話ができる。追いコンは式典であるので、合コン崩れのような会ではない。したがって、それぞれが飲みすぎずに、会話を楽しむ姿勢を持つ必要がある。よって楽しむのは2次会からである。1次会は会話を重視する会であるというのはどのような飲み会でも一緒で変わらないはずであるが、内輪であるがあまり、あるいはそのようなパーティーの経験がないゆえに1次会から泥酔するものもいるが、それは極めて下品であるので避けるべきだ。

◆大学の卒コンは、その集団によってかなりクオリティに差が出る。そこを見極め、4年続けるかを考えるのも一手だろう。4年あれば他人の卒コンに3回出る。2つの集団に属していれば6回も出ることになり、場合によっては幹事を兼任することや複数回経験数することもあるだろう。それはかなり面白く為になる経験なので、ぜひやっておくよよい。レベルが明確にわかるはずだ。僕もいくつかの団体の卒コンの幹事をしたりしたが、それぞれカラーがあり、また明確に良し悪しがわかるものも多かった。大変面白い経験であった。