こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

教員志望をやめた理由について。

 教職課程を履修しています。教育に関する授業は非常に面白く、大学に入って最も面白いと感じた授業は教職の授業でした。教育に関する授業を受けてみたい、というモチベーションだけで過程を履修するもの大いにアリだと思います。

 元々は、親が大学の学費を出す条件として、教員免許の取得をあげられたので、履修を始めました。受けてみると授業が面白く、また教育の重要性を理解するにつれ、教員になりたいという思いは強くなっていました。

 しかし、進路選択として、「新卒で教員になる」という選択はしませんでした。その判断の理由について考えてみます。

 1)教員の労働環境

 最近、教員の労働環境が劣悪であるという報道がよくみられます。私が直接聞いた話もかなりひどいと思うものが多かったです。僕は、「人生を楽しむ大人」を具現するのが教員の仕事の一つだと思いますし、教員になるのであればそういった教員になりたいと思っています。教育が終了したら生活は面白くない、なんてことを子どもに思って欲しくないからです。

 また、教員には「学ぶことの楽しさ」も具現していく必要があると思います。勉強する理由はたくさんありますが、大きなものとして「人生を楽しむため」ということがあります。江戸時代の歴史を学べば、江戸時代を舞台にした映画をもっと楽しむことができます。花の咲き方を学べば、四季折々の花を楽しむことができます。

 そのためには、教員自らが学び続け、楽しみ続ける時間や心身の余裕を確保する必要があります。

 今の教員を取り巻く労働環境では、僕の理想とする教員にはなれないと思いました。

 2)学識の不足

 僕は高校の社会科の教員になりたいと思っていました。社会科という科目は地理から公民まで、かなり広範な学問領域を内包します。なので、学部レベルの学修でこれらの楽しさを伝えることは難しいと思いました。何か一つの専門領域を修士・博士レベルまで高めて、より効率的な学修手法を身につける必要があります。

 学部卒業の段階では、僕の理想とする教員にはなれないと思いました。

 3)業務がルーティーン化している

 学校は毎年同じ時期に、同じイベントが予定されています。授業で行う教科書の内容も毎年コロコロと変わるものではありません。ある程度の年数が経過すれば、ほとんどの業務がルーティーン化してしまうように感じました。

 最初に書いた過酷な労働環境も合わせて、自己成長する機会が少ないように思えます。また、休職しての大学院進学もあまり一般化していません。研修制度も民間企業ほどの充実はしていないようです。

 自分自身の知見やスキルアップには繋がらないように思いました。

 おまけ)学校における教育者という人種について

 僕は、学校における教育者という人種と相性が悪いようです。教職課程で教鞭をとる現場教員上がりの講師の授業では全く良い評価を取れませんでした。一方、研究者が教鞭をとる普通の教職の講義では良い評価を得ることができました。

 その原因は、「言われた通りのことをしない」ことだと思われます。例えば、学習指導案もフォーマット通りに指定された単語を用いて書くことで高評価を得られます。僕はこの指導は「評価のための指導」にすぎず、「学習者のための指導」ではないように思いました。

 授業というのは相互作用です。学習者には学習者のリズムがあり、講師には講師のリズムがあります。それに合わせて授業を展開していく必要があると思います。教師の力量とは、それらに対応しうる引き出しの多さだとも思います。

 また、知識を得る方法も学習者によって異なります。テキストに色ペンをたくさん使い綺麗にまとめて覚えるスタイルもあれば、なんども読み返すことで頭に入れるスタイルもあります。なので、「色ペンを使い、綺麗にまとめればA」のような評価は学習者のためにならないと考えます。

 周りの教職課程の学生は、この「評価のための指導」に合わせることになれきっており、この新卒の学生がこの調子では、これからもこの風潮は変わりそうにありません。こういう人とは同じ職場では働きたくないと思いました。

 

 また思うことをつらつらと書きました。何かの参考になれば。