こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

映画を観るという行為について。

◆PrimeVideoで「ラ・ラ・ランド」が公開された。この作品は映画館で1度みた。ツイッターで話題になっていて、なんとなく見た。このときの感想としては、「ふーん、予告の印象とだいぶ違うなあ」という程度のもので、感銘を受けたような記憶はない。

◆それから1年後くらい後に、「グレイテスト・ショーマン」を見に行った。おそらく僕は、「ラ・ラ・ランド」と同じ映画館で見た。もしかしたら部屋も一緒だったかもしれない(音質やら画質やらが良いバージョンで見たからだ)。

◆「グレイテスト・ショーマン」は非常に感銘を受けて、2回か3回ほどみたし、サントラも買った(こういうのはサントラという表現であっているのだろうか)。先日の打ち上げでも話題に出したくらい、定期的に自分の中で咀嚼する作品になっている。それは、僕が自分自身について自覚しているコンプレックスが、作中の主人公と近いもので、その点においてかなり自己投影してしまう作品だったからだ。

◆実家へ戻り通学時間が2時間超になったので、電車でよく映画を見ている。PrimeVideoで「ラ・ラ・ランド」をDLし、電車の中でみた。久々にみた「ラ・ラ・ランド」はとても面白かった。映画館で見たときは面白いとは思ったものの、自分の中でなんども咀嚼するような作品ではないと思っていた。

◆多分、DLした「ラ・ラ・ランド」を僕はまだまだ削除できない。これからも、電車の中などで咀嚼することになると思う。何がここまで僕の心に刺さったのだろうか。また、刺さらなかったころの僕と今の僕は何が違うのだろう。

◆そんなことを考えていると、どういう変化が自分の中にあったのだろう?と考えてみる行為、それこそが映画をみる醍醐味なのではないだろうか?と、ふと思った。当初の自分への問いの答えにはなっていないが、このことに気づけたことだけでも、かなり有意義な思索になったな、と思っている。

◆話を戻して、どういう変化があったのか考えてみる。もしかしたら、映画で描かれるような愛憎を実体験できたのかもしれない。というのも、先日持病で倒れた際、彼女にとても献身的に介抱される経験をしたからだ。

◆意識を取り戻し、救急車の中で目を開けると、彼女が横にいて非常に安心した。前回倒れた際は、意識を取り戻して落ち着いたつもりでも、かなり動揺していて、薬をたくさん飲んでしまうということがあった。その反省も多少はあったと思うが、彼女が横にいて普通に接してくれていたということは、心理的にかなり大きいものだったように思う。

◆それから数日がたち、関係の皆様にはかなりご迷惑をおかけしつつも、順調に回復した。それから彼女とも当然数回あって会っているが、それ以前と全く変わらず僕と接してくれている。

◆事実として持病のことを伝えられ知っていても、実際にその場面に出くわしたらこれからの将来について少しは考えてしまうと思うし、態度に出て然るべきだと思う。「いやそれは知ってるから大丈夫なんですけど」と言うことは容易いが、実行は難しい。いとも簡単にそれを実行してしまっている彼女の芯の強さに正直驚いているし、とても嬉しい。そして何よりも、これまでにないくらいに愛情を感じている。

◆どうせこの記事は読まれないだろうけれど、心から感謝を伝えたい。そして、映画をはじめ芸術作品を観るという行為は、自己について理解を深める重要な手段であることに気づくことができた。これからも自分の感性を大切に、しかし過信せず、人生を、共に、味わっていきたいな、と思っている。

 

◆あと、このように段落を分けて書くとかなり描きやすいのでおすすめです。(誰に?)