こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

原体験について②〜その獲得手法に焦点を当てて〜

◆一つ前の続きです。前回では原体験と、それを掘り下げる行為の有意性について描きました。原体験を掘り下げることによって、自己理解が深まり、進路選択にとって有意であると言う話でした。実はそれにより人生めちゃエンジョイできるぞ!という話も書きたかったのですがなんだかテンションが乗らないので次に行きます。

◆どうすれば、強靭なストーリー性のある原体験を獲得できるのか、そしてその原体験を得るということが最も重要なのではないだろうか、ということが書きたいことです。(ただし脱線して全く違う話になってしまう可能性もあるな)

◆強烈な原体験を獲得するために、たくさんのコストを投じた、という話はあまり聞かない。期せずして、何かに巻き込まれたりして原体験を得た、という話の方が多いように感じる。つまり、強靭なストーリー性をもつ原体験をもつ人であっても、狙って体験を得ている訳ではないということだ。

◆しかしながら、そのように積極的に体験を迎えるわけではないのに、積極的に行動することで何かを得ていることが多い。

◆ここで面白いのは、一つでも強烈な原体験を持っている人は、それに及ばずとも十分に強靭な原体験を複数持っているケースが多いということだ。このことから、全て(と言わずとも多くの)の物事に積極的に参加するというスタンスをとっていることがわかる。

◆逆を返せば、そういうスタンスだからこそ、多くのことから強烈な原体験を得ることができているわけだ。前述したように、彼らの多くは積極的に体験を得にいっているわけではない。ここからわかるのは、誰でも経験するような、どこにでもあるような出来事に積極的に参加することで、強靭なストーリー性の原体験を得ている、ということだ。

◆先日、「かんぴょう巻きを食べるやつら」という話を聞いた。大学で必修のゼミを選択する際、「敢えてガチでないゼミを選ぶ人」をこのように表現していた。

◆この「ガチゼミを選ばない」という行為は、「回転寿司に行って、一皿だけ無料で食べれるので自由に選んでください」と言われた時に、美味しい中トロやサーモンは人気で並ぶので選ばずに、誰も選ばないであろう人気のない「かんぴょう巻き」を進んで選択する行為である、という話だ。

◆「ガチゼミを選ぶ」という行為は、特にコストもかからず、学年で半分程度が選択するありきたりの意思決定である。このありきたりな行為を避けることで、強烈な原体験を得る機会を損失している。この「ゼミ選択」という場面においても、前述したような原体験の獲得方法を理解したり体得している人は原体験を得ることのできるきっかけを掴んでいるし、わかっていない人はきっかけを失っている。

◆やはり、強靭なストーリー性のある原体験は別に特別な環境でなくても、どこにでもきっけかは転がっている。原体験を語れない人間はつまらない。なぜなら、これまでの人生で何も”なかった”という人なのだから。「かんぴょう巻き」の話をしていた人は、「そういう人たちはかわいそうなやつらで、そのまま死んでいく、それで良いのだ」と話していた。それを聞いた別の人が「そんなやつらの成長まで保証できない」と話した。

◆僕はそう思っていない。その点に気づけないというのは、教育の失敗だからだ。ここに気づけるようにさせるのが、教育者の仕事の最も重要なところだ。そして、このことを理解できない人を教育者として認め世に出すのは、教育者として許されないことだと思っている。(やはり関係ない話になってしまった)