こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

「逆かんぴょう巻き」という連中について。

◆今日、久々に後輩と会って、インターンやらについての相談を受けた、、というか、それらについての雑談をした。

◆彼はこの地域では最高クラスの学歴で、人物は爽やかで嫌味のない仕事をする愉快な人間だ。そんな彼が愚痴っていた。言葉をほぼそのまま文字に起こすと「サークルなどで大したことをしていないヤツが”コンサルに行きたい””起業したい””転職は当たり前”って言ってるの腹たつんですよね〜」というものだった。

◆今日、彼の前に別の後輩と会っていて、彼と前述の後輩は大学こそ違えど、最高クラスの学歴で、知的なナイスガイなのだが、彼も同じようなことを言っていた。その上で、「そういう人たちが多いと思うと、コンサルとかには行きたくないですよね〜」と言っていた。

◆彼らが忌み嫌う連中を、僕は「逆かんぴょう巻き」と呼びたい。以前、「かんぴょう巻き」とある人が侮蔑している連中について書いた。それと逆をいくが、本質的には同一である連中を「逆かんぴょう巻き」と呼びたい。僕は、このような「逆かんぴょう巻き」がもっとも周囲に悪影響を与えると思っている。

◆「逆かんぴょう巻き」というのは、要するに、誰かから聞いた受け売りを自分の血肉とせずに、自分の意見として披露してしまう人間のことだ。本来、自分の感じたことを言語化しようとする際、これまで経験し言語化した事象を駆使して説明する。

◆この時、使う経験は以下の2種類だ。「自らの経験から得られたこと」と「誰かから聞いた話によって追体験したこと」である。これらををフルに活用し、説明を行う。「逆かんぴょう巻き」の連中は、誰かから聞いた話を追体験せず(すなわち模擬的にすら実践せず)、説明を行う傾向にある。

◆その結果として、多くの「逆かんぴょう巻き」の人々は自分の実力を錯覚し(追体験していないので「誰かから聞いた話」の本筋を捉えていないばかりではく、それに付随する他の価値を理解できていないから)、実力以上の報酬や社会的地位を渇望するようになる。

◆このうち、まだ実力値と錯覚値との違いが小さい部類であれば、それなりに報酬や地位を獲得することができるが、この違いが大きければ大きいほど、人生うまくいかないことが多い。それが顕著に出るのが就職活動だろう。

◆「逆かんぴょう巻き」の連中は、「かんぴょう巻き」の連中とは違う選択=積極的に機会を得ようとする にも関わらず、追体験をしないという怠惰な選択や行動ゆえに、実質的には「かんぴょう巻き」の連中と同じ結果に陥るという、なんとも救いようもない連中なのです。

◆僕は周囲に恵まれた人生を歩んでいて、生徒時代・高校時代・大学時代、それぞれ尊敬できる恩師や大変優秀な同級生に囲まれてきた。例の後輩2氏は僕が出会った素敵な人たちの中でも、正直、ずば抜けて優秀だと思っている。僕なんかは同じ土俵に立ってもいないし、正直足元にも及ばない。

◆ぜひ、彼らのような人にこそ報酬・社会的地位が高い素敵な知的労働について欲しい。もっとも、彼らのような努力を楽しむ人間は、総じてそれらを求めてはいないのだけれど。