こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

何を気にするべきかについて。

◆少し前、アドラー心理学が流行った。アドラー心理学は(というよりもそれを語る本に記されていることは)、他者からの承認を否定し、自分がしたいことといった目的に重きを置くことで、色々なストレスから解放されるという。

◆つまりは、評価軸を他人に委ねず、自分の願う目的に適合していることを良しとするということだ。アドラー心理学を語る本を読むと以上のようなことが書いてあるが、よくよくアドラー心理学に関する専門書を読むとどうもそうではないらしい。

◆自分が良いと感じることをすれば良い、とややもすれば理解できる内容だが、アドラー心理学は他者との相互理解とそのための努力を重要視している。それを行わず、ただ自分の好きなようにやっているというのは、自己中心に考えているだけだ。

◆そして、自分の好きなようにやる、ということを曲解している。本来は他者の幸福のために、自分の価値に基づいてすべきことをすることをアドラー心理学は提唱している。ただ自分のために自分の価値に基づいて好きなことをするということではない。

◆先に述べた本来のすべきことを行うためには、他者との相互理解が重要なのだ。これによって、自分の価値によってすべきことと、他者の幸福とが一致する。

◆このような重大な誤解・すれ違いを持った人々が非常に多く感じる。アドラー心理学を勉強・実践していなくても、そういう思想を根底に持っている人が一定数いるように感じている。

◆他者からの評価を気にしない。自分のやりたいことをやる。個人主義的に生きていく。一見して先端の価値観に見えるが、実は古典的な文脈だ。こうした真の個性を求め、真の自由を求めるという目標は、尾崎豊ブルーハーツも歌っている。ここ50年程度ずっと言われている価値観だ。

◆これらに僕は疑問を抱いている。全ての他者評価を無視していいはずがないし、他者からのフィードバックなど相互作用によって磨かれていくものも多い。正しくは、真っ当だと思われる他者からのフィードバックを気にし、自分のやりたいことをよく考えるということだ。

◆では、どうすればどのフィードバックが適切であると判断できるだろうか。その見極めを得るには、自らが進んで多くの他者と接し相互理解を深める必要がある。ただ何も気にせず生きていくということは、無気力に生きることと同義だと思う。