こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

SUITに見る日本と欧米の学習の捉え方の違いについて。

◆SUITにはまっています。織田裕二が好きなので、日本版を見たところ、アメリカ原作ドラマの方が面白いという話を聞き、原作も見ました。面白い。

◆作中でレイチェルがパラリーガル止まりである理由として「テストが苦手」という表現がされています。(日本版は緊張する、みたいな表現)日本で「テストが苦手」と言われたら「勉強してないだけ」という避難を浴びるでしょう。

◆これは、欧米と日本の学習の捉え方の違いからくるのではないかと思いました。

◆日本でADHDについての理解が広まりつつある中で、「脳のタイプ」というアプローチから得意不得意を理解するという捉え方が根付きつつあります。

ADHDは脳のタイプ。同じように、暗記が得意だとか不得意だとか、人によって様々なタイプがあることが知られ始めました。しかし一方で、まだまだこれらに関心のない人には「暗記できない」=「不勉強」であるという捉え方がされています。

アインシュタインは以下のように述べました。「教育とは、これまで覚えたことを全て忘れてしまって、残ったもののことである。」

◆ここに、欧米の教育や学習についての捉え方が集約されています。

◆暗記は学習ではない。なので、暗記は重要ではない。大事なのは論理的思考力をはじめ、物事を理解する道筋を見つけ出す力である。これが学習や教育の本質的な部分であることは、教育学におけるスタンダードになりつつあります。

◆いまだに「暗記」=「学習」である日本では、到底理解できないことですね。ADHDが脳のタイプであるということすら、完全に浸透していないこの国ではますます理解できないことなのだろう、と思いました。

◆何より問題なのは、そのことが多くの子どもを不幸にし、大人たちは自分たちの未来を暗いものにし、全ての人にとって生きにくい社会を作り上げていることを想像できていないという事実です。

◆多様性を認める、というのは簡単ですが、これを成し遂げるためには相応の知識量と、継続して知識をアップデートしていく必要があります。さらには、それらを行うことのできる環境づくりをしていく必要があるのです。

◆この国はまだまだしんどい。もっと楽に生きていく努力をするべきだと強く思いました。