こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

ここ1ヶ月で驚いていることについて。

◆僕の人生史上ないくらいに、レベルの高い集団で過ごしています。なので、まじで公私共にストレスフリーな生活を送っています。

◆そんな生活なのですが、あることに気が付いて、少し驚いています。

◆それは、「誰かに何かをしてもらうこと」が「誰かの負担」に切り替わっていることを周囲が認識している ことです。

◆かつて、僕が集団を管理する立場にあった頃、誰かに任せてそれを管理するよりも、自分がやってしまった方が「楽」という理由で、様々な調整などを一手に担っていたことがありました。結果として倒れる結論になってしまったわけですが、その頃の集団や、大学で属していた集団は、集団で負うべき責任を 誰かが取ることについて、「自らにとって肯定」と捉えている人が多数でした。

◆結果的に、僕のように「自分がやってしまった方が楽」と考える人に責任と作業が集中するわけです。僕としては、それをすることで自分のナレッジが蓄積されて、結果的に組織の中で自分の優位が形成される、そして誰かに任せるより基本的にクオリティの高い結果が出ることが多かったので、評価も高まる、という二点から全くそれらを「負担」だとは思わなかったのです。

◆確かに、現実には、それによって「別に費やすことができた」可能性のある時間は消滅しているわけで負担といえば負担なのです。

◆で、現在属している集団においては、かなり成熟度が高いので、「分担をしてもクオリティが下がらない仕組みづくり」について考える人が多く、(恐らくアカデミック出身者が多いこと、学生時代に100人規模のサークルの取りまとめをしていた、四桁人規模のイベントを主催していたという経験が大変寄与しているものと思われます)必然的に、それぞれのケースにおいて「誰かの負担」という認識が強い(誰がやってもクオリティに変化が出ない=成果がコモディティ化している、つまり誰がやっても良い作業を誰かがやらなければならないという思考に至る)。

◆この環境は非常に居心地がよく、ルーティーン業務以上にいかに価値を発揮するか、いかにオリジナリティを、いかに独自色を出すか、という本来の期待に報いる努力がそれぞれできているわけです。こんなにもやりやすい状態はない。

◆この居心地を知ってしまうと、もうかつての環境には戻れません。この仕組みの組織を、学生時代に構築できていれば、どれだけ全体にとって幸せだったか…。

◆と、考えていて、ふと「どうすれば構築できただろう?」と考えることがありました。

◆結論から言うと、「あの組織では不可能」。何故ならば、今回の前提条件として「組織の責任を」「誰かが行うこと」が「誰かにとって負担である」と言う認識がなく、「組織の責任を」「誰かが行うこと」が「自分にとっては好都合」と言う認識だったからです。

◆ちなみに、これを当事者に聞けば、「そうは思っていない」と答えるでしょう。しかし、振り返ってみて、自ら責任や義務を全うしようと動いたことがあったのでしょうか。僕が管轄していた組織集団を見るに、学生時代の知り合いにそう言える人物は数人しかいません。

◆その点に気づいてしまうと、「なんて成熟度の低い集団だったんだ」と気づいて驚いてしまうのです。でも、これが僕にとって無駄だったかというとそうでもなくて、あのような集団の特徴は掴めたので、金輪際あのような集団と一緒に仕事をすることを回避できると思うと、プラマイゼロだったように思います。もっといえば、あの集団にいたおかげで、上の層からは比較され高評価を得ることができたわけなので、プラマイゼロどころかプラスだったな、と思ったりもしています。

◆ストレスフリーでいろんなことに余裕があると勉強もはかどりますし、色々と楽しいので、まじでストレスフリー最高だな、と思っています。