こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

他人の「苦手」を擁護するのは本当に正義なのか

*前提として、障がいのある人や病にかかってしまった人などはこの話題には含まれていません

 

◆僕が幼少期を過ごした地域の特性もあると思うが、会話の切り返しが素早くができない人/討議中に意見をまとめることが苦手な人が、意見を言えるまで待つことが「他人の話を最後まで聞く」と言うことに内包されていて、すごく違和感があった。

◆僕が思うに、会話の切り返し(その巧妙さみたいな部分は、天性のセンスが問われる部分が少なくないでのおいておく)や、討議中の自分の意見をまとめ発信すること などは、その人のインプット量に関係があると思う。

◆意見をまとめることは、自分の地肉となっている引き出しの多さや、インプットの際にどれだけ深掘りしたか、といった点にかかっていると思うし(逆にいえばこれらを習慣づけていれば難しい話ではない)。素早い切り返しも、友人や親との会話でできているならそれをTPOに合わせてアレンジすればいいだけだし、思い浮かばないのは、これまでの経験不足だ。

◆前述した2つの性質(会話の切り返し/自分の意見をまとめる)が「できない」「苦手」と言うことが、果たして「多様性」として尊重されてもいいのか?

◆これは個人的な不満だが、意見があるので意見を言うまたはその理解を促進するために補足説明をする、結果的に時間がかかってしまう、ということについては「反省しろ」、伝え方の賛否はあろうが、自分の意見と相手の意見が違う場合に、分量で勝るので議論に勝ったように見えてしまう状態では「相手の話を聞け」と指導される。アウトプットの量が多い/すぐに自分の意見をまとめて発信することは「多様性」として尊重されないのか?

◆確かに、そのような状況で場の空気や状態がTPOにあっていないのであれば修正すべきだ。が、「できない」「苦手」が多様性として擁護される(「そういうのが苦手だから待ってあげて」というような)一方で、その逆が多様性として擁護されないのは、許されるのだろうか?

◆許せないのが「苦手」「できない」を多様性として擁護されておきながら、他人を批判する連中だ。あれはなんなんだ?それらが「できる」人間のアウトプットを成果物して出して、評価だけ享受しておいて、結果的に自分は何も成果を出していないではないか。よくそんなことでのうのうと生きていられるな。

◆僕は、「討議中に意見を言えない」人は討議に参加する意味もないと感じる。もっと言えば、そのような連中は怠惰である。いくら人当たりがよかろうが、意見を言えない時点で潤滑剤としての役割すら果たしていない。「意見を言えない」連中はすぐに自分のことを「潤滑油」などというらしいが、潤滑油は噛み合わせパーツの間でしっかりと自己を主張しているから役割を果たしているのだ。そこにただ存在してニコニコ笑っているわけではない。硬くて強い連中に挟まれながら強固に自我を保っているのが潤滑油なのだ。

◆ということで、「討議中に意見を言うのが苦手だな〜」「うまく会話で切り返しできないな〜」という連中は本を読むなりドラマを見るなり遊びに行くなりをして、インプットを増やし自分の引き出しを充実させるべきだ。それをせずに「苦手だ〜」とのたまうのは怠惰に過ぎない。しっかり努力しているならば、ガーッと喋ってしまう僕らだって、ちょっとはあなたのことを尊重するだろう。努力していないのに認められようとするな。怠惰なままでは、誰もあなたのことを尊敬しない。(自省を込めて)