こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

データが嘘をつかせることについて。

◆世間的にはお盆で休みだが、僕はせっせと卒論を書いている。書いているというよりは、考えている。実際に手を動かし、データを集めている段階だ。

◆卒論のストーリーというか、何を論じたいかはほとんど決まっている。ある有名な、というか通説的に知られていることを、違った切り口から検証するタイプの研究になるからだ。

◆先日ツイッターで、「交通事故は家に近いところで起きている」や「交通事故は運転開始からXX時間で起きやすい」をということをデータを持って示していたものを見た。しかし、実は人間はそうそう頻繁に長時間(距離)あるいはごく短時間(距離)の移動などはしないので、当然に母数が多いところで事故が発生している。この前提があるので、データは有為ではなかった。

◆データは嘘をつかないが、データは人に嘘をつかせる。データは、理解のない人間に平気で嘘をつかせるのだ。

◆最近、いろんな人の発表などを見ると、かなり通説的な話であっても、データを引っ張ってきて説明することある。これはおそらく、プレゼンテーション至上主義的な教育のなかで、データを持ってくると説得力があるといった趣旨の指導があるからだろう。また、その指導の現場を見たことがある。

◆ただ、その指導は教員ではなく学生相互で行われていることが多い。XXって本当にYY?という問いは大切だと思うが、すでに十分な先行研究が行われ、理論の前提になるようなことにまでいちいちデータを持って説明する必要はあるのだろうか?

マイクロソフトの澤さんがVoicyか著書かで触れていたが、プレゼンは何を伝えないかということが重要らしい。本当に相手に伝わり、理解される発表をするためには、本当に必要なスライドやデータを厳選する必要があるそうだ。

◆やたら見やすいグラフを作れば良い、データをてんこ盛りにすれば良い、台本を暗記してスムーズに発表すれば良い。このような指導をきっと誰かが始め、結果的に見栄の良い発表になったのだろう。それを見た学生はこれを良いと捉え、中身よりもパッケージを小綺麗にするようになってしまったことが多いように感じる。

◆この問題について、僕が本当にマズいと思うのは、「台本を暗記した発表」だ。発表というのはコミュニケーションの1種であり、コミュニケーションは相互作用を前提として構築されるものだ。

◆つまり、発表者のコンディション、聞き手の理解度や特性、発表環境の設備などでコミュニケーションは異なるので、プレゼンは毎回異なるはずだ。にも関わらず、なぜ台本の作成と暗記が必要になるのだろうか。

◆プレゼンテーション至上主義は、コミュニケーションの不具合を生み、結果としてプレゼンテーションの体を為さないプレゼンテーションを大量に生産している。

◆こういったプレゼンで使われる定量的なデータは、かなりの確率で嘘をつかせていることが多いように感じる。どこかの他人様が集めたデータの母集団は、話したい内容と合致しているのか?また、どこかの他人様は信用できるデータの処理をしているのか?

◆プレゼンテーション至上主義は、こうした思考までも停止させている。なぜなら、普遍的なことまでデータを用いるから、データの数が膨大となり、処理が追いつかないからだ。

◆自分の足で集めたデータを、いろんな観点から丁寧に考察していこう。そうじゃないと、簡単に嘘をつかされてしまう。ただ闇雲に統計資料を使うことは、結果として説得力を失う結果になりかねない。気をつけないといけない。