こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

地元の変化について。

◆地元の友人と語らった。その前日、たまたま地元の駅で別の友人と会い、おしゃべりしながら少し迂回して、やや駅から遠いところを通って家に帰った。迂回路は、中学卒業以来初めて通る道だった。あれからかなりの時間がたった道は、大きく変化しないものの、かなり変化していた。

◆「大きく変化しないが、かなり変化していた」というのは、もう少し詳しく言えば、「道や建物が大きく変化してはいないが、玄関がスロープになっていたり、ランクルだったのに軽自動車になっていたりと、中に住む人はかなり変化していた」という意味だ。

◆僕は駅から5分かからない所に住んでいる。この辺りは最近まで大地主が広い土地を持っていたが、この大地主が耄碌したこともあり、土地を切り売りし始めた。そのため、プチニュータウン的に新居がどんどんとできてきていて、「この辺りはまだまだ成長しているな」「この辺は過疎化しているわけじゃないんだろうな」と思って住んでいた。

◆しかし、こうして少し駅から遠いところを歩いてみると、街がどんどん衰えていく様子が見受けられた。

◆僕の認識は甘かったのかもしれない。基幹産業があり、公共インフラも十分に充実している地域であれば、そうそう過疎化が進むような状況ではないと考えていた。数字の上で成長している地域であっても、過疎化は現実に起こっている。

◆僕はこれまで、地域は東京・地方都市・地方の中で、地方都市レベルであればそこまで大きい機会損失があるわけではない、と考えていたが、想像以上に「東京ORそれ以外」の状況となっている。

◆何を人生の豊かさとするのかは人しだいで、それによっては地方の暮らしも悪くないのだろうと思ってきたけれど、それは大前提として、生存が容易であるというものが存在する。果たして、地方都市や地方は30年後40年後に生存が容易なんだろうか?そして我々はどこまでの苦痛を許容して生きていくことを良しとするのだろうか?

◆そして、そうした視座を進学や就活の時点で持っているべきではないのか?業種だとか労働時間だとか、偏差値だとか就職率だとか、いつまでもその基準で考えていていいのだろうか?日本全国、どこでも平等だった基準が揺らいでいるのではないだろうか。

◆その中で、地方都市で暮らすという選択は成り立つのだろうか?無視できないはずの要素を、見て見ぬ振りをしていないだろうか?考えるべきことはまだまだたくさんあるのではないだろうか?バイアスはかかっていないだろうか?