こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

学生団体について。

 この4月まで、学生団体の取りしきりをしていました。かれこれ2年、いくつかの学生団体の運営をしてきたわけですが、そこで思ったことをつらつら書こうと思います。

 1)主体性について。

 多くの参加学生に主体性が無いように思いました。運営する立場になっても、与えられた役割を全うするだけで、全体像をイメージした上で連絡や作業をすることができません。この主体性を持たないというスタンスの背景には何があるのでしょうか。日本人独特の「出る杭を打つ」文化が原因だろうとぼんやりと思っていましたが、その文化を有していても主体性を持つ集団があることから、違うなーという気になっていました。

 最近では「関心がない」ということが原因であると思い始めました。さらにその原因は周囲の学生の多くが自分の「好きなこと」がわかっていないということです。そしてその根底にはこの地域の教育文化があると思うのですが、長くなるのでそこは割愛。

 2)なぜ学生団体に主体性が必要か?

 「長いものには巻かれろ」をよきとする文化があるのは十分に理解しているつもりですが、学生団体に参加するにあたり、それぞれの主体性は特に重要です。

 自覚はないかもしれませんが、我々は民主主義国家で暮らしています。それぞれが主体性ある行動を取ることは、民主主義の根幹です。その原体験を行う場として教育における学生団体が存在しているという、側面があります。(当然、学生団体の「活動そのもの」が最も重要なことです。)

 自らが所属している団体を選択し(好きなことを判別し)所属している集団に関心をもち(活動や組織の全体像を理解し)、主体性ある行動乃至議論をする。このことが民主主義の原体験として必要です。これを理解しないまま社会人となり、そのような社会人が多数を占めた時、この国における民主主義は死にます。

 民主主義が死んだ時、順番に弱いものから淘汰され搾取されます。かの有名なメー二ラーの言葉に以下のようなものがあります。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

  所属する学生団体に関心を持たず、主体性を持って参加しないことは、まさにこの言葉の最初のステップです。学生団体は、長い歴史の中で、多くの先輩によって脈々と受け継げられて来ました。それは、先輩方が自分たちや後輩のために、実績を積み上げた、時に学校と喧嘩をしながら守って来た努力の結晶です。

 学生団体の民主主義を殺してしまえば、それらは無駄なものとなります。関心がないが故に、そうした想像すらもできず、主体性なくただ所属するだけの時間を過ごしていくことになります。果たして、そんな学生生活に価値があるのでしょうか。僕はその程度であれば所属するべきではないと思いますし(その時間をアルバイトや資格勉強にでも費やした方がタメになります)、所属する資格はないと思います。

 友人作り?繋がり作り?そんなものは学生団体に入る以外の手法でも得られますし、学生団体に入るのはその目的に対してのコスパが極めて悪いです。ゼミやら地元の友人の友人との食事会をした方がコスパが良いです。

 学生団体に入る最も重要な目的は「団体の活動への参加」であり、最も重要な意味は「民主主義の原体験」です。そのためには自分の「好きなこと」への理解を深め、「主体性を持って団体に参加する」ことが重要なのです。

 

ま、今日はこんな感じです。