こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

地元について。

 皆さんにとって地元はどんな場所でしょうか。僕の親しい人には「地元最高!」っていう投稿をよくしてる人もいれば、地元を心から軽蔑している人もいます。周囲の人間と比較して、僕は地元を生活の基盤にしている時間の絶対値が低いので、あまり地元に対して愛着もなければ、嫌うほどの感情もありません。でも、どちらかというと地元には負の印象を持っています。それは、僕の人生や考え方に影響を与える出会いや出来事がなかったからです。(地元以外で住んでいる時間でとても影響を受けたので、相対的にそうなるということ。)

 それはさておき、ここ数年ですごく思うのは、「地元最高!」って人は一体地元のどこを良いと感じているのだろう?ってことです。僕の身の回りの「地元最高!」って人の大体は地元を出たことない人なので、地元とそれ以外の違いをどのように観測しているのだろう?と思っています。

 そもそも、僕が驚いたのは、「地元」の範囲が中学校区、下手すれば小学校区を指しているということです。僕は豊田市の生まれですが、名古屋(話す相手が北海道の人であれば岐阜くらいまで)くらいまでは地元、という認識でした。

 僕は、自分の中学校区を指して「良い!」と言えるのはでかい公園があるくらいで(でもその公園も大規模な高齢者のマレットゴルフ場になってしまった)、その他なにが「最高!」なのかはわかりません。ぜひ教えて欲しいです。僕らの地元、なにが最高なの?

 「地元最高!」という投稿は、友人との食事で頻繁に見受けられます。つまり、友人と接するなかで、「最高!」なことがあるのでしょうか。僕は友人が少ない方でもなければ、多い方でもないのですが、考え方や生き方について色濃く影響を与えてくれた地元の友達はそこまで多くありません。同じような境遇だからこそ話せる話もあるのでしょうが、僕にはあまり相談するような困ったこともありませんし、最近気付いたのですが割と地元の友人とは社会階層が違うようですので、これに類する話題はありません。これも僕が「地元最高!」と思わない要因なのでしょうか。

 僕の中で今一番有力な説は、地元の友人が本を読まず映画を見ないということです。僕らの地元は2年くらい前まで映画館がありませんでした。駅にあった本屋も潰れてしまいました。一方で、大学や横須賀の友人は、マイヤンっぽい気質であっても、文化的な前提が共有されていたように思います。そうした文化的前提により、「自分の気持ち」をより言語化できている人が多かったように思います。

 だからこそ、考えていることがよく伝わり、共有できたりしたのではないでしょうか。その共有の先に、感銘や影響を受ける関係が築けたような気がします。

 この文化的な前提が欠損しているというのは、田舎ではかなり起こりうるのではないでしょうか。逆に言えば、今の時代は親などが意識的に興味を誘導することで、補完できるものなのではないでしょうか。つまり、親世代がこの欠損に気づけないと、欠損は再生産され続けるということです。

 都会にいれば、ほぼ自動的に共有される文化的前提が、田舎では意識的に共有される必要がある。しかし、親世代がその重要性に気づけていないから、欠陥が再生産される。そうして、都会と田舎の格差は拡大を続けるのではないでしょうか。

 

 今年に入って、古い友人とちらほら会ったり、東京で新しい友達ができたりします。彼らと遊ぶととても楽しくて、「そう言えば、中学とかこういう楽しさなかったなー。大人になったってことかな?」などとと思っていたのですが、実は根深い問題かもしれませんね。でも、地元の良さ、知りたいです!と本気で思っていたりもします。ぜひ教えてください。