こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

これからの業界についてー②

◆続きを書きます。

 

◆前述したように、4マスとインターネットの垣根がなくなることで、「いつ」「どこで」「何で」映像コンテンツを鑑賞するのかも、同時に曖昧なものになります。この場面で「視聴習慣」が有効になる、なので日曜夜は日テレが強い ということが語られていますが、この話はあくまでテレビという媒体での話です。視聴率の実態を見ていると、もはやテレビはコンテンツを鑑賞する手法の一つに過ぎず、もはや圧倒的王者、主流であるとは言えません。なので、あくまで「テレビでは視聴習慣が重要である」ということに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもありません。この話でセットでついて来る「録画機器の普及・発展」についてもこの曖昧化を推進しています。

◆映像コンテンツを楽しむ「方法」「時間」「媒体」は曖昧なものとなり、それらの意味がなくなる一方で、「コンテンツそのものの面白さ」については相対的に重要な意味を持ちます。コンテンツを鑑賞するハードルは下がれば、そりゃ重要なのは「コンテンツが面白いか」に移行しますよね。

◆「コンテンツの時代だ」という話はいろんな人がわかりやすく書いているので、書きません。この件について、広告業界の切り口から見て行きます。

◆広告コンテンツに面白さを加えることで、より効果を見込めるという手法は昔からありました。広告コンテンツそのものが面白くなれば、広告を見るひとは増えて、商品の覚知に役立ちます。このわかりやすい例がいわゆる「インフルエンサーマーケティング」ですね。

◆では、人々の可処分時間を、数あるコンテンツの中から広告コンテンツに使ってもらえる手法は他にあるのでしょうか?と考えると、僕は「利便性あるコンテンツ」への昇華が有効であると考えています。

◆ただ単に、商品やサービスの魅力やそのもの覚知を図るだけのコンテンツに時間を使ってはくれません。なので、CMを面白くしたりして、「広告コンテンツ」に時間を使ってくれるように工夫してきました。

◆利便性あるコンテンツではどうでしょうか。例えば、公式Lineアカウントで商品の予約や注文ができればどうでしょうか。ここまで来ると小売サービスと広告が融合したような広告コンテンツになりますが、ここが現状見える広告業界の最終的な形であるように思います。

 

◆あとなんか色々あったような気がするので、また思い出したら書きます。

これからの業界について。ー①

◆一応、来年からは広告業界に身を投じることになっている。就職活動間、興味のある方面のたくさんの人々の業界全体の見通しを中心に話をきかせていただいた。それらを備忘録的に記す。

◆そもそも前提として、我が国の環境を考えておく必要がある。我が国は、今後人口減少局面を迎えることから経済規模も横ばいまたは縮小するであろうとされている。その内実としては、地方は生活インフラをはじめとしてこれまで並みの水準を維持することが難しく、「東京ORそれ以外」という状況が顕著化する、ということがあげられる。この前提条件を理解していなければ、正しく業界を取り巻く状態を把握することは難しい。

◆一般に情報通信技術の発展も影響を与える。とりわけ、コンピューターサイエンスの発展については目を見張るものがあり、また広告・マスコミについてはこの影響が大きいものと考えられている。

広告業界の最大の収入源はSPであるが、これは利ざやがそこまで多くないし、内訳が非常に細かいので単純にSPとして論ずることは困難であるし、前述したように細かいので個別それぞれとしてはかなり小さい案件であるので、やはり主流は4マスとインターネットであろうと考えられる。

◆インターネット広告費が情報通信技術・コンピューターサイエンスの発展の影響を受けるのは当たり前だが、4マスもかなりの影響を受ける。4マスの8割はテレビ放送だが、ここにも絶大な影響を与える。

YoutubeやVoicyなど、IP(インターネットプロトコル)による情報発信が主流化しており、かつては映像コンテンツであればテレビ局だけだったコンテンツの発信局は爆発的に増加している。

◆テレビ局側から見れば、これまでは映像コンテンツの発信を放送技術によって独占していたが、IPによってパソコン1台で誰でもコンテンツの発信局になることができる時代になったのである。

◆映像コンテンツの発信手段としてIPが登場したことは、4マス媒体広告とインターネット広告の垣根がなくなり、これらが融合することを意味している。

 

◆まだ続きます。今日は眠いのでこの辺で。

データが嘘をつかせることについて。

◆世間的にはお盆で休みだが、僕はせっせと卒論を書いている。書いているというよりは、考えている。実際に手を動かし、データを集めている段階だ。

◆卒論のストーリーというか、何を論じたいかはほとんど決まっている。ある有名な、というか通説的に知られていることを、違った切り口から検証するタイプの研究になるからだ。

◆先日ツイッターで、「交通事故は家に近いところで起きている」や「交通事故は運転開始からXX時間で起きやすい」をということをデータを持って示していたものを見た。しかし、実は人間はそうそう頻繁に長時間(距離)あるいはごく短時間(距離)の移動などはしないので、当然に母数が多いところで事故が発生している。この前提があるので、データは有為ではなかった。

◆データは嘘をつかないが、データは人に嘘をつかせる。データは、理解のない人間に平気で嘘をつかせるのだ。

◆最近、いろんな人の発表などを見ると、かなり通説的な話であっても、データを引っ張ってきて説明することある。これはおそらく、プレゼンテーション至上主義的な教育のなかで、データを持ってくると説得力があるといった趣旨の指導があるからだろう。また、その指導の現場を見たことがある。

◆ただ、その指導は教員ではなく学生相互で行われていることが多い。XXって本当にYY?という問いは大切だと思うが、すでに十分な先行研究が行われ、理論の前提になるようなことにまでいちいちデータを持って説明する必要はあるのだろうか?

マイクロソフトの澤さんがVoicyか著書かで触れていたが、プレゼンは何を伝えないかということが重要らしい。本当に相手に伝わり、理解される発表をするためには、本当に必要なスライドやデータを厳選する必要があるそうだ。

◆やたら見やすいグラフを作れば良い、データをてんこ盛りにすれば良い、台本を暗記してスムーズに発表すれば良い。このような指導をきっと誰かが始め、結果的に見栄の良い発表になったのだろう。それを見た学生はこれを良いと捉え、中身よりもパッケージを小綺麗にするようになってしまったことが多いように感じる。

◆この問題について、僕が本当にマズいと思うのは、「台本を暗記した発表」だ。発表というのはコミュニケーションの1種であり、コミュニケーションは相互作用を前提として構築されるものだ。

◆つまり、発表者のコンディション、聞き手の理解度や特性、発表環境の設備などでコミュニケーションは異なるので、プレゼンは毎回異なるはずだ。にも関わらず、なぜ台本の作成と暗記が必要になるのだろうか。

◆プレゼンテーション至上主義は、コミュニケーションの不具合を生み、結果としてプレゼンテーションの体を為さないプレゼンテーションを大量に生産している。

◆こういったプレゼンで使われる定量的なデータは、かなりの確率で嘘をつかせていることが多いように感じる。どこかの他人様が集めたデータの母集団は、話したい内容と合致しているのか?また、どこかの他人様は信用できるデータの処理をしているのか?

◆プレゼンテーション至上主義は、こうした思考までも停止させている。なぜなら、普遍的なことまでデータを用いるから、データの数が膨大となり、処理が追いつかないからだ。

◆自分の足で集めたデータを、いろんな観点から丁寧に考察していこう。そうじゃないと、簡単に嘘をつかされてしまう。ただ闇雲に統計資料を使うことは、結果として説得力を失う結果になりかねない。気をつけないといけない。

地元の変化について。

◆地元の友人と語らった。その前日、たまたま地元の駅で別の友人と会い、おしゃべりしながら少し迂回して、やや駅から遠いところを通って家に帰った。迂回路は、中学卒業以来初めて通る道だった。あれからかなりの時間がたった道は、大きく変化しないものの、かなり変化していた。

◆「大きく変化しないが、かなり変化していた」というのは、もう少し詳しく言えば、「道や建物が大きく変化してはいないが、玄関がスロープになっていたり、ランクルだったのに軽自動車になっていたりと、中に住む人はかなり変化していた」という意味だ。

◆僕は駅から5分かからない所に住んでいる。この辺りは最近まで大地主が広い土地を持っていたが、この大地主が耄碌したこともあり、土地を切り売りし始めた。そのため、プチニュータウン的に新居がどんどんとできてきていて、「この辺りはまだまだ成長しているな」「この辺は過疎化しているわけじゃないんだろうな」と思って住んでいた。

◆しかし、こうして少し駅から遠いところを歩いてみると、街がどんどん衰えていく様子が見受けられた。

◆僕の認識は甘かったのかもしれない。基幹産業があり、公共インフラも十分に充実している地域であれば、そうそう過疎化が進むような状況ではないと考えていた。数字の上で成長している地域であっても、過疎化は現実に起こっている。

◆僕はこれまで、地域は東京・地方都市・地方の中で、地方都市レベルであればそこまで大きい機会損失があるわけではない、と考えていたが、想像以上に「東京ORそれ以外」の状況となっている。

◆何を人生の豊かさとするのかは人しだいで、それによっては地方の暮らしも悪くないのだろうと思ってきたけれど、それは大前提として、生存が容易であるというものが存在する。果たして、地方都市や地方は30年後40年後に生存が容易なんだろうか?そして我々はどこまでの苦痛を許容して生きていくことを良しとするのだろうか?

◆そして、そうした視座を進学や就活の時点で持っているべきではないのか?業種だとか労働時間だとか、偏差値だとか就職率だとか、いつまでもその基準で考えていていいのだろうか?日本全国、どこでも平等だった基準が揺らいでいるのではないだろうか。

◆その中で、地方都市で暮らすという選択は成り立つのだろうか?無視できないはずの要素を、見て見ぬ振りをしていないだろうか?考えるべきことはまだまだたくさんあるのではないだろうか?バイアスはかかっていないだろうか?

原体験について②〜その獲得手法に焦点を当てて〜

◆一つ前の続きです。前回では原体験と、それを掘り下げる行為の有意性について描きました。原体験を掘り下げることによって、自己理解が深まり、進路選択にとって有意であると言う話でした。実はそれにより人生めちゃエンジョイできるぞ!という話も書きたかったのですがなんだかテンションが乗らないので次に行きます。

◆どうすれば、強靭なストーリー性のある原体験を獲得できるのか、そしてその原体験を得るということが最も重要なのではないだろうか、ということが書きたいことです。(ただし脱線して全く違う話になってしまう可能性もあるな)

◆強烈な原体験を獲得するために、たくさんのコストを投じた、という話はあまり聞かない。期せずして、何かに巻き込まれたりして原体験を得た、という話の方が多いように感じる。つまり、強靭なストーリー性をもつ原体験をもつ人であっても、狙って体験を得ている訳ではないということだ。

◆しかしながら、そのように積極的に体験を迎えるわけではないのに、積極的に行動することで何かを得ていることが多い。

◆ここで面白いのは、一つでも強烈な原体験を持っている人は、それに及ばずとも十分に強靭な原体験を複数持っているケースが多いということだ。このことから、全て(と言わずとも多くの)の物事に積極的に参加するというスタンスをとっていることがわかる。

◆逆を返せば、そういうスタンスだからこそ、多くのことから強烈な原体験を得ることができているわけだ。前述したように、彼らの多くは積極的に体験を得にいっているわけではない。ここからわかるのは、誰でも経験するような、どこにでもあるような出来事に積極的に参加することで、強靭なストーリー性の原体験を得ている、ということだ。

◆先日、「かんぴょう巻きを食べるやつら」という話を聞いた。大学で必修のゼミを選択する際、「敢えてガチでないゼミを選ぶ人」をこのように表現していた。

◆この「ガチゼミを選ばない」という行為は、「回転寿司に行って、一皿だけ無料で食べれるので自由に選んでください」と言われた時に、美味しい中トロやサーモンは人気で並ぶので選ばずに、誰も選ばないであろう人気のない「かんぴょう巻き」を進んで選択する行為である、という話だ。

◆「ガチゼミを選ぶ」という行為は、特にコストもかからず、学年で半分程度が選択するありきたりの意思決定である。このありきたりな行為を避けることで、強烈な原体験を得る機会を損失している。この「ゼミ選択」という場面においても、前述したような原体験の獲得方法を理解したり体得している人は原体験を得ることのできるきっかけを掴んでいるし、わかっていない人はきっかけを失っている。

◆やはり、強靭なストーリー性のある原体験は別に特別な環境でなくても、どこにでもきっけかは転がっている。原体験を語れない人間はつまらない。なぜなら、これまでの人生で何も”なかった”という人なのだから。「かんぴょう巻き」の話をしていた人は、「そういう人たちはかわいそうなやつらで、そのまま死んでいく、それで良いのだ」と話していた。それを聞いた別の人が「そんなやつらの成長まで保証できない」と話した。

◆僕はそう思っていない。その点に気づけないというのは、教育の失敗だからだ。ここに気づけるようにさせるのが、教育者の仕事の最も重要なところだ。そして、このことを理解できない人を教育者として認め世に出すのは、教育者として許されないことだと思っている。(やはり関係ない話になってしまった)

原体験について①~その有為性に焦点を当てて~

◆先日、「リクルート出身者は”原体験”というフレーズが好き」というような話を聞いた。先輩がリクルートから転職した人で、その人から同期が聞き、それが僕に伝わった。ツイッターでもこれに近いものをみたので、割と流通している話なのかもしれない。

◆バイトの後輩などから、「就活してないようなもんでしたけど(=めちゃ早く終わってましたけど)、どうやったんですか?」と聞かれて、だいたい「好きなことと自分の性格を考えて、調べていったら案外すぐ行きたい会社は決まるのではないかな」というようなことをしゃべっていたのだけど、これって要するに”何が自分の原体験か”を理解するということかもしれない。

◆だいたいの決定には理由が伴う。この理由に脆弱さがあると、相手の不信感を増長させたりや理解の正確さは下がったりして、結果的には採用されないわけだ。決定や行為の根源となる理由について、正しい原体験がついていれば、信用を増長させ正しい理解へ誘導できる。結果的に、採用に近づく。

◆僕は就活の効用は自分自身の理解だろうと思っている。実は、この行為自体は高校の選択あるいは大学の選択といった、それぞれの場面における人生のターニングポイントで行われなければならないこと。これまでの人生のターニングポイントで妥協していれば、適切に自分自身を理解することが出来ずに就職活動を迎えることとなり、結果は芳しくないものとなるのではないだろうか。

◆原体験の脆弱/強靭の違いは、その場面に遭遇するという「運」の要素もあるが、場面に遭遇する、また場面において多くの情報を収集しようとする「行動力」に依存する。

◆このことを理解していると、「かんぴょう巻き」を食べるようなことはしない。ここでいう「かんぴょう巻きを食べる」という行為については、また別に書いてみたい。

◆話を戻すと、これまで原体験を掘り下げたり整理することが有為であるということを書いていたけれど、実はより意味のある「原体験を行う」ことの方が重要である。それが原体験の脆弱/強靭さの作り方、という話になるのだけど、長くなりそうなので、この記事では原体験の有為性まで記しておしまいにする。

映画を観るという行為について。

◆PrimeVideoで「ラ・ラ・ランド」が公開された。この作品は映画館で1度みた。ツイッターで話題になっていて、なんとなく見た。このときの感想としては、「ふーん、予告の印象とだいぶ違うなあ」という程度のもので、感銘を受けたような記憶はない。

◆それから1年後くらい後に、「グレイテスト・ショーマン」を見に行った。おそらく僕は、「ラ・ラ・ランド」と同じ映画館で見た。もしかしたら部屋も一緒だったかもしれない(音質やら画質やらが良いバージョンで見たからだ)。

◆「グレイテスト・ショーマン」は非常に感銘を受けて、2回か3回ほどみたし、サントラも買った(こういうのはサントラという表現であっているのだろうか)。先日の打ち上げでも話題に出したくらい、定期的に自分の中で咀嚼する作品になっている。それは、僕が自分自身について自覚しているコンプレックスが、作中の主人公と近いもので、その点においてかなり自己投影してしまう作品だったからだ。

◆実家へ戻り通学時間が2時間超になったので、電車でよく映画を見ている。PrimeVideoで「ラ・ラ・ランド」をDLし、電車の中でみた。久々にみた「ラ・ラ・ランド」はとても面白かった。映画館で見たときは面白いとは思ったものの、自分の中でなんども咀嚼するような作品ではないと思っていた。

◆多分、DLした「ラ・ラ・ランド」を僕はまだまだ削除できない。これからも、電車の中などで咀嚼することになると思う。何がここまで僕の心に刺さったのだろうか。また、刺さらなかったころの僕と今の僕は何が違うのだろう。

◆そんなことを考えていると、どういう変化が自分の中にあったのだろう?と考えてみる行為、それこそが映画をみる醍醐味なのではないだろうか?と、ふと思った。当初の自分への問いの答えにはなっていないが、このことに気づけたことだけでも、かなり有意義な思索になったな、と思っている。

◆話を戻して、どういう変化があったのか考えてみる。もしかしたら、映画で描かれるような愛憎を実体験できたのかもしれない。というのも、先日持病で倒れた際、彼女にとても献身的に介抱される経験をしたからだ。

◆意識を取り戻し、救急車の中で目を開けると、彼女が横にいて非常に安心した。前回倒れた際は、意識を取り戻して落ち着いたつもりでも、かなり動揺していて、薬をたくさん飲んでしまうということがあった。その反省も多少はあったと思うが、彼女が横にいて普通に接してくれていたということは、心理的にかなり大きいものだったように思う。

◆それから数日がたち、関係の皆様にはかなりご迷惑をおかけしつつも、順調に回復した。それから彼女とも当然数回あって会っているが、それ以前と全く変わらず僕と接してくれている。

◆事実として持病のことを伝えられ知っていても、実際にその場面に出くわしたらこれからの将来について少しは考えてしまうと思うし、態度に出て然るべきだと思う。「いやそれは知ってるから大丈夫なんですけど」と言うことは容易いが、実行は難しい。いとも簡単にそれを実行してしまっている彼女の芯の強さに正直驚いているし、とても嬉しい。そして何よりも、これまでにないくらいに愛情を感じている。

◆どうせこの記事は読まれないだろうけれど、心から感謝を伝えたい。そして、映画をはじめ芸術作品を観るという行為は、自己について理解を深める重要な手段であることに気づくことができた。これからも自分の感性を大切に、しかし過信せず、人生を、共に、味わっていきたいな、と思っている。

 

◆あと、このように段落を分けて書くとかなり描きやすいのでおすすめです。(誰に?)