こちらは青春番外地

ツイッターでは溢れることを書きます。「ですます」「である」が混在していますが、書いた時の気分次第です。面倒なので統一はしません。

面白さと厚みは同じ ということについて。

◆人格を評価するとき、「人間に厚みがある」という表現をする。これはいろんなことを吸収してくれるさまや違う意見でも取り入れるようなさまに使われることが多いと思う。偉人でいえば西郷隆盛って感じかな。

◆最近、「厚みのあるやつ」は「面白みがあるやつ」だと思えてきた。パリピの集う業界に身を投じるわけで、懇親会が月1以上のペースであるので、そろそろ同期のことを理解し始めた。パリピは面白いのだが、よくよく会話してみると「厚み」がある。この2つは、相関がある。

◆厚み、というのは何によって形成されるのだろう。僕は「一人の時間」だろうと思う。「何度一人ぼっちの夜を シーツにくるまって迎えても 強くなんてなれないさ」というのはコブクロの歌詞だが、まさにその通り。強くなんてなれない。そこに厚みが生まれるきっかけがあるんじゃないだろうか。

◆「一人の時間」というのはなかなか作れない。一人でいても誰かのことや何かのことを考えている。つまり、実のところ誰かといるのと同じだ。ほんとうの「一人の時間」とは、何かの作業を通じて自分自身と対話する時間のことだろう。

◆ここで、同期の趣味「ハガキ職人」「ミニ四駆」「盆栽(やつは盆栽というと怒る。なんか世界的なやつになると別の名称があるらしい。でも要するに盆栽)」、これらが光る。この趣味は一人で行う作業が大半だ。

◆やつらの「面白さ」つまり「厚み」は、ここで培われるに違いない。他人との相互作用から離れ、自分自身の作業により作り出されたものと対話する。すなわち、自己との相互作用を味わう瞬間だ。

◆これが、自己理解を深め、人間に「厚み」を作り出す。この「厚み」ってやつが「ほんとうの面白さ」の根源なのだ。

◆これらのことを直感的に理解できると、他人の「ほんとうの面白さ」を許容することができる。この「ほんとうの面白さ」は理解できないものもある。それを認めることができるのは自分や他人の中の「ほんとうの面白さ」を理解できる経験を得たもののみだ。

◆多様性がある世の中を面白い、と思うには「ほんとうの面白さ」を理解しているかどうかが肝になる。それは良さがわからないものをそれでよしとすることだ。言い換えれば教養ということだ。

◆面白さを理解するには教養が必要。そして教養があれば面白さを理解することができる。成長段階として、そこにたどり着けるか否かは、受けた教育、もっと言えば恩師の存在によるのだ。それだけ教育の責任は大きい。なぜなら、より良いものを求める情熱はここに宿るからだ。その情熱は教育により身につく。

◆またまた言いたいことが散らばった。まあそんなこともあるよね。おやすみ